北海道の札幌圏近郊の湖といえば、支笏湖、洞爺湖、ウトナイ湖あたりを思い浮かべる人も多いですよね。
ふと気になりました、
「江戸時代の人たちは、こういう湖を知っていたんだろうか?」
もちろん湖そのものは何千年、何万年も前からあります。ただ、現在のように道路が整備され、観光地として知られていたわけではもちろんありません。
では当時の人たちは、支笏湖や洞爺湖をどんな場所として見ていたのでしょうか。
調べてみると、幕末の北海道には意外なほど詳しい記録が残っています。特に重要なのが、北海道を何度も歩いた松浦武四郎です。
支笏湖は江戸時代にもちゃんと記録されています
まず支笏湖です。
ここはかなりはっきりした史料があります。
松浦武四郎は幕末の安政4年(1857年)、蝦夷地の内陸部を調査しました。そのときの記録の一つが「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」です。
その中には「志古津日誌」という記録があります。
この「志古津」は、現在の「シコツ」、つまり支笏湖周辺につながる名称です。武四郎は千歳川から支笏湖口、さらに樽前方面へ向かうルートを実際に調査し、山や川、地名、動植物などを記録しています。
つまり、「江戸時代の支笏湖について記録が残っているの?」という疑問には、かなり明確に「はい」と答えられます。
「志古津」という名前が面白い
現在は当たり前のように「支笏湖」と呼んでいますが、幕末の資料を読むと「志古津」という表記が出てきます。
そもそも「支笏」という漢字自体、アイヌ語の地名を漢字で表したものです。
ですから、江戸時代の記録を読んでいると、「支笏湖」という現代の観光地を見るというより、アイヌ語の地名が使われていた時代の土地を見ているような感覚になります。
武四郎の記録には、単純に「ここに湖があります」と書いてあるだけではありません。川や山、道筋、周辺の自然などが一緒に記録されています。
今の地図では支笏湖は一つの巨大な湖として見えますが、当時の人にとっては、千歳川や樽前山などとつながった一つの広い世界だったわけです。
洞爺湖も幕末の記録に登場します
洞爺湖についても記録があります。
ここでも登場するのが松浦武四郎です。
武四郎の「後方羊蹄日誌」には、羊蹄山周辺から洞爺湖方面へ向かったときの記録があります。
面白いのは、単に「洞爺湖という湖があった」と書いて終わりではないところです。
当時はもちろん現在のような道路がありません。山道を歩き、アイヌの案内を受けながら進み、ようやく湖畔へ出るという旅でした。
現在なら札幌から車で洞爺湖へ行って、展望台から「きれいだな」で終わります。
でも幕末の人にとっては、そこへたどり着くこと自体が一つの旅だったわけです。
昔の洞爺湖は「観光地」ではありません
当たり前の話ですが、これが結構重要です。
現在の洞爺湖には温泉街、ホテル、道路、遊覧船などがあります。
ところが幕末には、そんなものはありません。
山を越えていくと、突然巨大な湖が現れる。
武四郎が見た洞爺湖は、私たちが現在見ている洞爺湖と同じ湖なのに、周囲の環境はまったく違っていたわけです。
しかも武四郎は洞爺湖の様子を絵にも残しています。
こういう記録があるので、単に「昔から洞爺湖は有名だった」と想像するだけではなく、当時の人が実際にどのように湖を見ていたのかをある程度追うことができます。
ではウトナイ湖はどうなのか
ここは少し事情が違います。
ウトナイ湖についても、江戸時代の勇払・千歳周辺の記録や地名資料を追っていくことはできます。
ただし、支笏湖の「志古津日誌」のように、「この史料を読めば江戸時代のウトナイ湖の様子が詳しく分かる」という代表的な記録を簡単に一つ挙げるのは難しいです。
そのため、ここは「江戸時代にウトナイ湖が詳細に描写されている」とまで断定しないほうが正確です。
ウトナイは湖だけを見るより周辺の地名を見ると面白いです
ウトナイ湖周辺は、現在でも湿地や河川が多い地域ですよね。
昔はさらに、勇払原野の広い湿地や河川、湖沼が一続きになったような景観でした。
ですから江戸時代のウトナイを調べるなら、「ウトナイ湖」という現在の湖だけを見るより、勇払、千歳、美々、勇払川など周辺の地名や水系をまとめて調べたほうが、当時の姿が見えやすくなります。
そもそも昔の人にとって、現在のように「ここからここまでが湖」「ここから先は別の場所」という感覚ではなかったでしょう。
湿地、川、湖、原野がつながった広い土地として見ていたはずです。
なぜ幕末の北海道にはこんなに詳しい記録があるのでしょう
ここで松浦武四郎の存在がかなり大きくなります。
武四郎は江戸時代の終わりごろ、蝦夷地を何度も旅しています。
しかも、ただ歩いて景色を見るだけではありません。
現地のアイヌの人たちから地名や道、山や川について聞き取り、それを自分でも確認しながら記録していきました。
そのため、武四郎の資料には地名だけでなく、地形、動植物、人々の暮らしなどについても情報が残っています。
北海道立文書館などにも、「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」や「戊午東西蝦夷日誌」など、武四郎の調査に関係する大量の資料が残っています。
北海道という名前ができる前の北海道です
ここが、こうした古い記録を読む面白さだと思います。
現在の地図を見ると、支笏湖は支笏湖、洞爺湖は洞爺湖、ウトナイ湖はウトナイ湖です。
でも幕末の記録を見ると、ちょっと違った世界が見えてきます。
支笏湖は千歳川や樽前山へ続く山川の世界。
洞爺湖は山道を越えた先に現れる巨大な湖。
ウトナイ周辺は勇払原野の湿地や河川が広がる土地。
つまり、今の観光地としての北海道とはかなり違うわけです。
江戸時代の三つの湖を比べると
ざっくり整理すると、支笏湖はかなり具体的な記録が残っています。
特に「丁巳 志古津日誌」は、現在の支笏湖周辺を考えるうえで重要な資料です。
洞爺湖も、松浦武四郎の「後方羊蹄日誌」などから、湖へ向かう道筋や湖の景観を知ることができます。
一方、ウトナイ湖は少し慎重に見る必要があります。湖そのものの詳細な描写を探すより、勇払・千歳周辺の地名や河川、湿地についての記録を組み合わせていくほうが、当時の姿に近づけます。
昔の北海道を想像すると、今の景色もちょっと違って見えます
支笏湖や洞爺湖に行ったとき、私たちは普通に道路を走って湖畔まで行きます。
でも、そこから少しだけ時間を巻き戻してみると面白いです。
道路もありません。
観光ホテルもありません。
当然、スマホもカーナビもありません。
山道を歩き、川を越え、アイヌの案内を受けながら進んでいく。
そして、その先に現在と同じ湖が現れる。
そう考えると、支笏湖や洞爺湖は単なる「昔からある北海道の観光地」ではなく、江戸時代の人たちが実際に歩き、名前を呼び、記録を残してきた場所だったことが分かります。
特に松浦武四郎の記録は面白いです。
現在の地図と照らし合わせながら読んでいくと、「ここを昔の人が歩いていたのか」とかなり具体的に想像できます。
北海道の湖を歴史から見てみるなら、まずは支笏湖の「志古津日誌」から入るのが面白いと思います。
参考にした資料
松浦武四郎「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」
松浦武四郎「後方羊蹄日誌」
松浦武四郎「初航蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」
北海道立文書館所蔵・松浦武四郎関係資料
北海学園大学附属図書館・松浦武四郎関係資料


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